TEACHER

2020.07.10UP

【先生コラム】僕たちは教科書に載らない。

東野友洋 地歴科 / 探究科

TEACHER

高校生は歴史がお嫌い?

子どもたちに日本史を教えている。今の日本のシステム上、歴史が暗記科目であることは否定し難い。日夜暗記に励む彼らの姿は、歴史教育とは何たるかを、僕たちに突きつける。一方で、歴史というきっかけで彼らの脳が鍛えられていくのならば、それはそれで悪くもないのか。答えは、当分出そうにない。我が校の高校生は皆日本史を学ぶ。世界史は選択科目に存在していない。その是非はともかく、様々な単元を学ぶ彼らがとりわけ嫌うのが、「文化史」の領域である。飛鳥時代に始まる仏像・彫刻史、仏教を始めとする宗教史。その他にも、学問史、絵画史、などなど…。とにかく多岐にわたる事項が、高校生の教科書にはびっしりと連なっているのだ。

『日本史 嫌い』で検索するとヒットした。「文化史が苦手な高校生が多い」。理屈の根拠は定かでないが、ともあれ、高校生は文化史が嫌いであるという感覚を、僕自身がこの五年間、肌で感じていることは違いがない。

共感をよりどころに

なぜ彼らが文化史を嫌うのかについて考えてみたい。歴史が物語として扱われるのは、『まんが日本の歴史』や大河ドラマが証明している通り。大きな歴史の転換点には、人の姿とその想いがある。それはダイナミックにフォーカスされ、共感を生み、人々を惹きつける。大人にも子どもにも、魅了されるドラマのカギは共感から。思い返せば、「〇〇の気持ちになって考えてみよう」という文句は、歴史を学んだ誰しもが一度は触れたフレーズではないか。その点でいくと、文化史には、共感のタネが少ないように思う。仏像に、お寺の伽藍配置に、扇に描かれた絵画に…。言葉や動きを伴わないものにダイナミズムを見出すことは、どうしてたって難しい。子どもたちにとっては尚更そうだろう。理解するためのきっかけを掴みにくい分野であることも、そう考えると合点がいく。

僕たちは教科書に載らない

「文化とは何か?」何の専門家でもない僕が、その論点に踏み込むほど厚顔無恥なこともないので、あくまで素人の持論として。文化とは、人々の生活の中の営みそのものだ。法隆寺夢殿救世観音も、鎌倉の扇面古写経も、一見するとただの物にすぎない。動きは無いし、セリフだって有り得ない。でも、そこに詰まった人々の営みに丁寧に目を向けることはできる。人々の顔や名前は、教科書には出てこない。でも、教科書に載らない人のほうがよっぽど多い。江戸時代の東京の人口はざっくり言って100万人。そのうち、教科書に載った人物はどのくらいいる?せいぜい多くても100人くらいか。では、残る99万9千900人の歴史はどうなった。彼らにもまた暮らしがあり、思いがあり、大切な日々があったはずで。

繰り返すようだが、彼らの暮らしを教科書から直接知ることは叶わない。しかし、それは外でもない僕ら自身の歴史。文化史を人々の生活の営みと位置付けるならば、今を必死で生きる僕らの歴史は、その学びにこそ潜んでいるんじゃないか。だから、僕は文化史を大切にしたい。仏の見つめる先に映る人の姿を、絵画の色彩に思いを馳せた人の願いを、時代背景や世相を手がかりに想像する。よく目をこらすと、きっとたくさんの「共感」が見つかる。思いやりと想像力を身につけて、歴史を身近に感じられる絶好のチャンスではないか。

探究科と地歴科と

「共感」をキーワードとするならば、探究科で培いたい力と歴史教育は親和性が高い。今年度からスタートする追手門の新科目「探究」。見えないものへ思いを馳せられる人づくり、貢献できたらと思う。

(タイトル下の画像は、Wikipediaの「扇面法華経冊子」ページより)

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