校長ブログ

校長 木内 淳詞 Junji Kiuchi

2022.04.20

越境する知

 先日、社会学者の見田宗介先生がお亡くなりになったとの報道がありました。自宅の書架から見田先生の本を取り出してパラパラとページをめくっているうちに、自然と引き込まれ、岩波新書の3冊を再読してしまいました。上の写真の一番上に写っているのが、『社会学入門』で、序章には、「越境する知」というタイトルが付けられています。私が所有している本の奥付を見ると、2006年4月20日 第1刷発行となっています。当時私は40歳を少し過ぎたところで、この本が刊行されてすぐにこの本を購入して読んだ記憶があります。今回、再読して、当時感じた見田先生の熱い言葉が16年経った今もすぐに私の頭の中に蘇ってきました。少し長い引用になりますが、生徒の皆さんだけではなく、保護者の皆さん、本校の教員にも、是非読んでいただきたく思います。


 社会学は<越境する知>Einbruchslehreとよばれてきたように、その学の初心において、社会現象のこういうさまざまな側面を、横断的に踏破し統合する学問として成立しました。マックス・ウェーバー、デュルケーム、マルクスのような「古典的」な社会学者をはじめ、フロム、リースマン、パーソンズ、アドルノ、バタイユ、サルトル、レヴィ=ストロース、フーコーといった、現在の社会学の若い研究者や学生たちが魅力を感じて読んでいる主要な著者たちは、すべて複数の―経済学、法学、政治学、哲学、文学、心理学、人類学、歴史学、等々の―領域を横断する知性たちです。
 けれども重要なことは、「領域横断的」であるということではないのです。「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとって本当に大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルであると思われる問題について、手放すことなく追求しつづける、という覚悟の結果なのです。近代の知のシステムは、専門分化主義ですから、あちこちに「立入禁止」の札が立っています。「それは〇〇学のテーマではないよ。そういうことをやりたいのなら、他に行きなさい。」「××学の専門家でもない人間が余計な口出しをするな。」等々。学問の立入禁止の立て札が至る所に立てられている。しかし、この立入禁止の立て札の前で止まってしまうと、現代社会の大切な問題たちは解けないのです。そのために、ほんとうに大切な問題、自分にとって、あるいは現在の人類にとって、切実でアクチュアルな問題をどこまでも追求しようとする人間は、やむにやまれず境界を突破するのです。
 「領域横断的」であること、「越境する知」であることを、それ自体として、目的としたり誇示したりすることは、つまらないこと、やってはいけないことなのです。ほんとうに大切な問題をどこまでも追求してゆく中で、気がついたら立て札を踏み破っていた、という時にだけ、それは迫力のあるものであり、真実のこもったものとなるのです。
 問題意識を禁欲しないこと。人生の他のどんな分野においても、禁欲は大切なことであり、ぼくたちは禁欲的に生きなければいけないものですが、学問の問題意識においてだけ、少なくとも社会学という学問の問題意識においてだけは、ぼくたちは、禁欲してはいけないのです。


…―それがどのような問題であっても、自分にとってほんとうに大切である問題、その問題と格闘するために全青春をかけても悔いないと思える問題を手放すことなく、どこまでも追求しつづけることの中に、社会学を学ぶ、社会学を生きるということの<至福>はあります。どんな小さいレポートでも、どんなに乾燥した統計数字の分析でも、読む人はそのような仕事の中に<魂>を見ます。これは「魂のある仕事だ」ということを感じます。