校長ブログ

校長 木内 淳詞 Junji Kiuchi

2020.12.07

師匠の本、「物」としての書物へのこだわり

 自宅の本棚でふと目について、久しぶりに読み返してみた本があります。写真の本は、私が大学に入って、初めてフランス語を教えてもらい、私の所属していた文学部2組の担任でもあった石井洋二郎先生が出された本です。
 タイトルには、あえて師匠と表現しましたが、サボり学生だった私は先生の弟子であるなどと、恥ずかしくて冗談でも言えません。しかし、先生のフランス語の講読の授業で、モーリス・ブランショという批評家やロートレアモンという詩人の作品に悪戦苦闘しながら取り組み、さらには、なぜか学生が数人しか来なかった授業の時に、「珈琲でも飲みながらお話ししましょうか」と、カフェでごちそうしていただいたことは、私の記憶の中に今でも鮮明に残っています。私が大学を卒業した後、先生は東京大学に戻られて、教養学部長や副学長まで務められました。
 私は、ネットで本を買うことは少なく、リアル書店に頻繁に足を運び、もともと買いたかった本だけではなく、書店でたまたま目についた本を購入して、読めば家の本棚に並べます。家では、本棚に収納しきれず、二重・三重に並べられた本のことで、しばしば文句を言われるのですが、この本のように、以前に読んだ本であっても、何かのきっかけでふと目について、再読することもあります。本校の各フロアにおいても、「本との偶然の出会い」が毎日起こっているように思います。私はやはり本を身近なところに置きたいという強い思いがあります。石井先生の本にも、こんなことが書いてありました。

 けれどもその一方で、わたしはどうしても「物」としての書物へのこだわりをすてることができない。分厚い本を手にしたときのずっしりした重み、ページをめくるときのざらざらした紙の手ざわり、古書から漂ってくる黴の匂い、そうしたものへの愛着を捨てることができない。ある調査によれば、電子書籍が普及しても紙の本にこだわる人がまだ多数を占めているというが、それは単純にこれまでなじんでいる習慣を変えたくないという理由だけではなく、場所ふさぎであるとか持ち運びに不便であるといった利便性の欠如にもかかわらず、あるいはむしろそれゆえにこそ、人はやはり「書物」という邪魔なものを自分の手でもちたい、好きなときに指で触れたいと思っているからではあるまいか。

 家であの人に読ませたい文章です。