校長ブログ

校長 木内 淳詞 Junji Kiuchi

2020.05.07

倫理的にふるまうということ

 終日蟄居していると、まったくテレビを観ないわけにもいかず、観てしまうとなんだか嫌な感じのニュースが報じられていますね。
 本来、私たち大人は生徒の皆さんの手本となるべきなのですが、どうしてこういうことをするのか、と、その人と関係のない私が恥ずかしくなってしまうようなこともあります。そういう人のふるまいには共通点があり、「今のことしか考えない、自分のことしか考えない」ということです。上の写真は、神戸女学院大学の名誉教授、内田樹先生の最新刊ですが、この本に書かれていることが、今の状況に当てはまることが多いように思います。
 タイトルが少し刺激的なのですが、このサルというのは、「朝三暮四」という言葉のもとになったサルのことです。詳しくここに書くことはできませんので、もし興味をお持ちでしたら、生徒の皆さんは少し調べてみてください。
 中国の宋の人が飼っていたサルに、トチの実を朝夕に四つずつ与えていたけれど、それが難しくなったので、朝に三つ、夕に四つ与えると言ったら猿たちは怒ったそうです。そこで、朝に四つ、夕に三つにすると言ったらサルは喜んだという話です。もらえるトチの実は同じ数なのですが、目先の違いにとらわれて、その後のことに考えが及ばないというサルの愚かさが表されています。次にこの本の中から、少し引用しておきます。


 このサルたちは、未来の自分が抱え込むことになる損失やリスクは「他人ごと」だと思っている。… 「こんなことを続けていると、いつか大変なことになる」とわかっていながら、「大変なこと」が起きた後の未来の自分に自己同一性を感じることができない人間だけが、「こんなこと」をだらだら続けることができる。

「朝三暮四」は自己同一性を未来に延長することに困難を感じる時間意識の未成熟(「今さえよければ、それでいい」)のことであるが、「自分さえよければ、他人のことはどうでもいい」というのは自己同一性の空間的な縮減のことである。

「倫理」といういのは別段それほどややこしいものではない。「倫」の原義は「なかま、ともがら」である。だから「倫理」とは「他者とともに生きるための理法」のことである。他者とともにあるときに、どういうルールに従えばいいのか。別に難しい話ではない。「この世の人間たちがみんな自分のような人間であると自己利益が増大するかどうか」を自らに問えばよいのである。


 内田先生の、この倫理の話は(他の本にも同様のことが書かれているのですが)、とても分かりやすく、私はいつも自分のふるまい方を考えるときの基準にしています。
 テレビの報道は、極端な人をとりあげる傾向があります。そうでないと面白くないからです。素晴らしい、誰からも称賛される英雄的な行為。何をやってるんだ、と多くの人が眉を顰めるような行為。しかし、大多数の人たちは(皆さんがおそらくそうであるように)、特別なことはしていないかもしれませんが、先のことを考えて、また自分以外の人たちのことを考えて、行動しています。私たちの社会は、そういう人たちに支えられて成り立っているのだと思います。

 学校も再開に向けて少しずつ準備を進めています。少しずつでも先を見て、少しずつでも周りの人たちに思いを寄せ、生活を進めていきましょう。再開準備のための登校日に、生徒の皆さんにお会いできることを楽しみにしています。